第二の人生をブラジルで − ボランティア活動の経緯


  ペトロポリス市は、ブラジルの有名な観光地リオデジャネイロ市から、海岸山脈を約70Km登った標高800mにある歴史的な観光地です。

  私はこのペトロポリスにあった日系進出企業の工場に1973年に派遣されて以来、2000年に定年退職する迄この工場で働きました。ここは年中暑い大都会のリオデジャネイロとは全く違う、山間の静かな中都市で、気候も温暖、住人も明るく親切で、沢山の知己も得たため、私達家族にとっては故郷のような土地になっており、定年後も、そのまま住み続けることになりました。そこで、定年後の第二の人生をどうするかと言う事になり、いろいろ模索した結果出た結論は、女房が私の在職していた工場敷地内で、ボランティアで開いていた文化センターを、別の場所で続けると言うことでした。

  私が在職していた会社の親会社が、以前市に寄贈し、今は小中学校とスポーツセンターとして使われている建物の一部を、市から借り受け、文化センターのメインの講座であった成人向けの中・高校教育講座を開き、ボランティアで世話をすることにしました。

  この講座は、元々州の学校であるため、本校の校長先生に交渉して、講座の指導管理や証書の発行授与は州、建物、教師、教材は市の提供、州と市の間の連絡、学校の運営、事務は、私達夫婦が担当すると言うことで、2003年2月から、CES-Petropolisの分校NACES da Fabrica do Saber(カスカチーニャ分校)としてスタートしました。

  この分校開設準備中に、私の居住地区町内会委員から、地区内に仕事もなくブラブラしている若者に教育してやりたい。これは就職につながるだけでなく、悪の道に走ることを防いで、地区の防犯にもつながるとの声が上がり、地区の市立小学校の教室を、週一回夜間に借りて、成人向け中学教育講座を開くことになり、私達夫婦が町内会有志と共同で運営することになりました。カスカチーニャ分校より一足先に、カランゴラ分校として2002年8月開講の運びとなりました。その後カスカチーニャ分校が開講したため、私達が両方の面倒を見るのはかなり負担になるため、この分校は、2005年8月に町内会有志に運営を移譲し、私達は身を引きました。

  また、文化センターで開いていた日本語講座は、日本語教師によってペトロポリス日本語学校として独立しましたが、私達夫婦は、この学校でも日本語会話の相手、教科書の整備などをボランティアで手伝っていました。しかし、カスカチーニャ分校の生徒数が増加したことと、日本語学校の教師が増えたことで、直接の手伝いからは手を引き、現在はお互いに助け合うという関係になっております。

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