ペトロポリス便り
ボランティア活動報告  No.2

2002年12月、 ペトロポリス 安見 清、道子

 
今回の報告は、2002年11月14日、リオ日本商工会議所、定例昼食会での講話の原稿をもって、報告に代えさせていただきました。

ブラジルで始めた第二の人生

 最近は第二の人生を海外で、と考えている人が多いそうです。私もその中の一人になりましたが、では、どうして私はブラジルを選んだのか、を知りたいとのことで、大先輩がいらっしゃるのに、私ごときがお話するのは口はばかるのですが、まあ最近の例ということでお聞きいただきたいと思います。まず、自己紹介、次に定年後の今の生活、そして今日ご出席の皆さんが関心をお持ちの、なぜ私はブラジルに居座ったのか、ということをお話しして、最後に、自分も第2の人生をブラジルで過ごしてみたい、と思われている方への私の反省と皆なんへのサジェスチョンとまとめ、という順序で話を進めて行きたいと思います。

1.自己紹介
 1964年に三菱重工に入社し、横浜造船所ボイラ工場に配属されて、日本国内、カナダ、サウジアラビアでのボイラ据付工事担当をした後、入社9年目にブラジル、ペトロポリスのATA社に派遣されました。5年の任期の後、日本に帰ればまた、サウジや東南アジアに行かされる。それよりはと思って、ブラジルに居たいと、自己申告表に書きました。幸い3年延長、更に2年延長、一年延長と小刻みに延長になり、とうとう60歳定年までブラジルに居座る事が出来ました。当時、三菱重工6万人の従業員中、私の様に海外に出ずっぱりだったというのは、一、二の例しかありません。
 2年前に60歳で、三菱重工とATA社を同時に退職しました。退職後、リオ日本商工会議所に顔を出さなくなり、ペトロポリスに引きこもって、いったい何をしているのだろう、といぶかっておられるのではないかと思います。自己紹介の延長で、この2年間の、私の生活をご紹介します。週刊誌の見出しで言えば、衝撃的私生活、全告白編です。

2.定年後の今の生活
 会社時代には、退職後は自由な生活をと夢見ていましたが、いざ自由になると何をしたら良いのかアイデアが無く、とりあえず習い事でもしながら考えよう、そのうちにいいアイデアが浮かぶだろうと、いろいろな習い事に精を出しました。まず、先生についてポルトガル語の再勉強をしましたが、結局語学の才能の無い私には、大変難しい言語だと言う事が判っただけで、たいして上達もしませんでした。コンピュータ教室に通い、いろいろなアプリケーションをポルトガル語で再勉強しました。タイプ教室にも行きました。絵画教室に通ってアクリル画を始めました。趣味として、週日のゴルフを週1〜2回。ブラジル人グループに入って小旅行。インターネット検索やメーリングリスト参加、家庭菜園、盆栽作り、野鳥のえつけ、ペトロポリスの歴史の翻訳、日本語学校用教科書作り。しかし、習い事や趣味だけを何年もやっていると飽きてしまうだろうな、と言うのが結論でした。

 2年目に入り、その思いが強くなり、今までの経験知識、それに、これまでに培ったズウズウしさを社会生活に活用して行く方が、活気ある生活が送れると感じ始めました。たまたま、周囲の要望もあり、私自身も教育の必要性を感じていたこともありで、以前ATA社で行なっていたATA文化センターと同じ内容の活動を、個人的ボランティアで再開したらどうかという考えに至りました。このATA文化センターについては、もうご存知の方が多いと思いますし、話し始めると長くなりますから、詳しい説明は省かせていただきますが、ここでは、地域住民のために殆ど無料で、いろんな教育、文化講座を開いていました。この活動を個人のボランティアで再開しようというわけですが、以前は、会社という後ろ盾があって、場所もあった。しかし、今は個人の身で、場所も資金もない状態で、なにもかもというわけにはいきませんから、まずは、その中で最も需要のあった、成人向け義務教育補習校、Curso Supletivoといいますが、の分校を開くことにしました。これは州政府の、義務教育未修了者救済のための教育システムなので、州にかけあって先生の派遣契約を取りつけました。場所は、我が家の近くの、公立小学校の教室と、市の教育局が管理している文化スポーツセンター内の部屋の2ヶ所を借りることにしました。公共機関との交渉は時間のかかるもの、OKが出るまでに、夫々半年近くもかかりました。

 公立小学校の方は8月に開校し、現在77名の生徒が登録されています。週1回のスクーリングに、毎回20〜30名の生徒が出席し、私は女房と2人で、その生徒管理をしています。もう1ヶ所の、市の文化スポーツセンターの方は、部屋を恒久的に借りられることになっており、10月末にようやく引き渡されたのですが、学年末に近く、今年の開講は無理になってしまったので、新年度に向けての準備をしています。来年からは毎年300名程度の生徒を受け入れるつもりでいます。これが軌道に乗ったら、更に職業訓練講座、日本文化関連の講座なども始めるつもりですし、日本からの海外研修生なども、どんどん受け入れていけたらと思っています。

 計画していた活動が一度に始まってしまったので、今は大変忙しいのですが、これは苦労ではなく、生徒相手に冗談を飛ばして楽しみながらやっています。生徒達からは喜ばれるし、上流階級のブラジル人からも、一様に大変良い活動をしているとほめられるので、単純な私はすっかり気分を良くしています。これで活気ある第2の人生が送れそうです。

3.なぜ第2の人生をブラジルで送ることにしたのか
 退職後2年が経過して、やっと活気ある第2の人生が送れそうな目途がたったが、さてそれでは、そのような生活目標がなかった2年前に、なぜ第2の人生をブラジルで送ることにしたのか、ということですが。。。 以前私が働いていたATA社では、日本からの派遣者が全部で45名を数えましたが、ブラジル嫌いで早く帰りたいとこぼした人は居らず、一様に、出来る事ならもっと居たいと言っていました。こんなことから見ても、たいていの日本人はブラジルが好き、と言えるでしょう。これは、ブラジル在住の皆様にはご理解いただけると思いますが、いかがでしょうか。そういう私も、勿論ブラジル大好きのブラキチで、ブラジルが好きだからブラジルに住んでいる、と言ってしまえば、もう言う事はないのですが、あえて理由をつけてみますと。。。

 まず、ブラジル以外の外国を考えてみるために、私は会社の定年旅行でカナダへ行ってみました。カナダは我々夫婦が最初に行った外国で、すっかり気に入って、住んでみたいとまで思った国です。その上、定年後に移住して、日本の年金で楽しく暮らしている知人がいますので、そのお宅を訪問して、生活ぶりを見せてもらいました。かのご夫妻は、町の文化センターで、至れり尽せりの講座に参加したり、日本からの訪問者の世話をしたりして、のんびりと暮らしていました。私にとってカナダはあこがれの地ですが、ここでは受身の生活になるな、現地の人の上に立って活躍できるチャンスはないな、というのがその時受けた印象で、ブラジルの方が、もっと活動的な生活が出来そうだと感じました。カナダは日本へ一時帰国する時に、途中で立ち寄って、旅行者として楽しむことにしました。

 活動の場が日本より大きい。。。 先ほど私が現在やっている活動を紹介しましたが、こんなことは日本だったら出来ないだろうなと思います。日本人は組織を作ったり管理したりという点では、ブラジル人より優れているので、ブラジル人は、こんなところを我々に期待しています。しかも、日本人を信用してくれる点が、さらに仕事をやりやすくしていることは、皆さんも現在の仕事の中で感じられていることでしょう。今回の成人向け義務教育の分校開設に際しても、小学校の方は、もともと町内会が、地域の安全確保のために青少年を教育しよう、ということから始まったので、町内会の主催で、われわれは町内会の一員として協力している形になっています。そこで町内会が、校舎の所有者であるカトリック教会に教室借用を申請したのですが、契約社会のご多分に漏れず、いろいろな書類提出を要求され、厳しい条件を出されて紛糾し、あげくの果てに教会側は、ブラジル人は信用おけぬ、あの日本人個人になら貸すと言い出したそうです。この活動は、名目にしろ、町内会が主催することに意義があるので、少し冷却期間を置こうと言っている内に、使っても良いことになりました。結果的には、まだ正式契約が出来ないうちに教室使用許可が出たわけで、契約社会とは言いながら、ケブラガリョとかジェイチーニョ(多少規則を曲げてでも、適当に便宜を図ってくれること)で、結局はなんとかなるところがブラジルの良いところです。また私としては、あの日本人個人になら貸すと言ってくれたことが、なんとも嬉しいところです。日本人にとってやり易い国です。

 経済的に言っても、日本でもらう年金を、日本で使うのとブラジルで使うのでは、どちらが使い出があるかは明らかですね。ちなみに先ほど紹介した成人向け義務教育の分校は、開始時の8月に文房具を買い揃える費用がR$300程度でした。9月は不足教科書の追加印刷費を私が出しR$300、10月はもう一つの開校準備で300程度。月R$300は約12,000円。月1回夫婦で横浜駅西口に出て食事をし、ブラブラしてくるだけでなくなってしまう金額です。同じ金が、ブラジルではいかに有益に使えるか、この位の金で、心がより豊かになるわけですね。

 第2の人生の後は、第3の人生があります。いずれは体力的に社会活動が出来なくなり、家に引きこもる時期が来る。そうなった時は日本に帰っても良いし、その時考えるつもりです。この様に考えてきてブラジルと決めたのです。丸2年過ぎて判断は間違っていなかった。今の私に悩んだり、後悔する事は何もありません。ボランティア活動は私には遊びです。大いに遊んで楽しもうと思います。

 私の希望はどんどん膨らんできています。成人向け教育講座は間もなく軌道に乗るでしょう。次は日本のNGOに働きかけ、職業訓練講座や日本文化関係の講座を開くことです。そのうちに、郵政省のボランティア資金とか、外務省の草の根基金のような、いろいろな援助が得られるようになれば、もっともっと大きなことが出来ます。そして、日本の若者を海外研修生として受け入れて行きたいと考えています。

4.私の反省、サジェスチョンとまとめ
 退職後は隠居だと言う人にはどこに住んでも同じでしょうが、まだまだ活躍したいと言う人にはブラジルをお薦めします。それには退職前に充分に準備をしておく事です。私の場合、退職後どうするかを全然考えていなかったので、スタートに2年もの無駄をしてしまいました。あとわずかの人生、2年の無駄は大変大きい。これが反省です。退職後を準備していなかった言い訳ですが、1995年ごろ三菱重工は景気が良かった。我がATA社も景気が良く、リオ州の優良企業に選ばれフェルナンドエンリケ大統領から表彰状をもらい、華々しかった。本社のトップから、おまえ60歳まで社長をやり65歳まで会長をやれや、と言われ、自分の将来は安定と思っていました。その後、三菱重工が大幅減益に転じると話は一変。海外関連会社の整理縮小売却の話になり、検討の結果、海外で製造部門を持つ関連会社27社で唯一、我がATA社が売れる会社だったのです。ATA社は、三菱重工の取り扱っていない製品を製造していたため、重工の図面は一枚も使っておらず、切り離しが簡単。利益の出ている優良企業だから買い手がつく、という事で売りに出されたのです。極秘で売却業務をやって、引き渡しと同時に、自分の定年退職となったのです。1999年7月に、この商工会議所の昼食会で、リオで活躍する製造企業として講話をしましたが、あの時は、売却交渉真っ只中で、顔で笑って心で泣いての講話だったのです。時の流れによって、自分の人生設計は大幅に揺さぶられるものです。安定などありえません。いろいろの意味で準備をしておくべきですね。2年間を浪費した私の反省です。

 サラリーマンなら誰にも来る第2の人生、有意義に過ごすためには、体力と金が必要です。しかし、このレベルは個人差がありますから、1千万の方が500万円持っている人より有意義な人生だという事ではないですね。

 ありきたりのサジェスチョンですが、会社で働いているうちは、サラリーマンの特権、会社の金で、自分の見聞を広め、知人、友人を増やしておく事が出来るということです。機会がある限り客先現地を訪問し、ブラジル社会を知る事、ブラジル社会に直結した人物、団体と知り合いになっておく事です。それが新しいことを始める時に役立ちます。勿論今の仕事をないがしろにしてはなりません。仕事を通してです。定年後もまだ働きたいと思われる方は、再就職探しでも、自営業への準備でも、この間にやっておくべきです。私も本当は、まだまだ働ける、再就職してもっと働きたい、と思ったのが、チャンスを失ってしまいました。会社時代には、自分の力で仕事が出来ていると過信しがちですが、いったん会社を離れると、1人ではなにも出来ないという事をしっかりわきまえて、事前に根回しをしておくことです。

 退職後は何をやるにしても、会社を離れると全部自分一人でやらなければなりません。今のうちに、雑用も秘書にやらせるのではなく、全部自分でやってみて、この社会で合理的にやる方法をみつけだしておくことです。そして定年後は何をやるにしても、奥さんを抱きこんで一緒にやる事ですね。会社ではフォローしてくれる部下がいた。退職後は奥さんしか居ない。だからこそ今のうちに奥さんに、将来一緒にやれそうなことで、ブラジル社会との繋がりの一端を付けておいてもらう、共同作戦を始めると良いでしょうね。私の場合は、ATA文化センターを運営していたのは、私ではなく女房でした。だから、運営のノウハウを持っているのは女房の方で、女房を抱き込まなければなにも出来ない。そこで、女房をおだてて引きずり込み、こき使っているわけです。女房を抱き込めば、お父さんは外で勝手なことをやっている、というような文句は出ないし、無報酬、無条件で協力してくれる。家庭円満にもつながり、よくいわれている退職後の家庭崩壊も防げるわけです。

 これまでいろいろと私の事情を話してきましたが、皆さんの胸の内にはまだ疑問が残っていると思います。その第一は家族のことでしょう。私の場合は娘が1人いますが、サラリーマン時代は小刻みの任期延長で、いつ日本に返されるかわからない状態でしたので、ブラジルでも日本でも通用する子にしようというのが目標でした。小学校1年生から大学まで現地校で勉強させて、今はリオで就職しています。日本語の方は、家庭での会話の他に、現地校と平行して、通信教育で日本の9年間の義務教育を修了、更に公文の日本語講座も修了させました。女房の方は、私と同様のブラキチですから何ら問題はありませんでした。日本に居る親兄弟、親戚等、家族のしがらみがなかったことも幸いでした。日本の身内や知人、友人とは、毎日インターネットでやり取りしています。インターネットを使えば、日本への贈答品も簡単におくれますし、日本の本や品物も購入できます。日本は遠いところとの感覚はありません。次ぎはビザの問題ですが、私はブラジルの永住権を持っていますので、これを失わないためには、ブラジルに住んで時々日本を訪問する方が有利です。住居と生活費については、私は現在日本の年金で生活していますが、ペトロポリスで、緑に囲まれた大きな家に住み、使用人を使っています。こんな生活は、日本で年金生活をしたらとても不可能です。この様な事も、私がブラジルに居座ることを可能にした理由になります。

 リオ地区の第2の人生者が集まって、リオに、退職者交流会、異業種交流会みたいなものを作り、情報交換勉強会を開いて、小銭稼ぎ求職情報または独立支援、ボランティア情報、なんて開くと一人一人がいろいろな事が出来、活気ある人生が送れるでしょうね。
まあこんなところです。


追記:
10月末に譲り受けた市のスポーツ、文化センターの場所は、元のATA文化センターの大きさに匹敵するもので、市と州の教育局の二ヵ所から勉強机、黒板等を借受け、アルボルギ社(元ATA社、現在デンマークの会社が経営している)から、家具類、パネル類、古いコンピュータ6台を寄贈してもらいました。現在それらの配置中です。

12月11日 CURSO SUPLETIVO カランゴラ分校 の今年度の修了式をしました。学科毎修了者、と教科毎(MODULO)修了者表彰で生徒25名、来賓6名、と我々の出席でした。

12月14日 Centro Cutural ATA (アタ文化センター) の開所、披露パーテー を開きまし
た。その場で、今後の活動に労力提供を申し出てくれた人々がいて意を強くしました。
以上
ボランティア活動報告のトップページへ戻る